1.ベトナムで急成長するコングロマリット「ビングループ」

 日本にいる方にはあまり知られていませんが、ベトナムの私企業のビン・グループ

(VINGROUP)が自動車生産やスマートフォンを生産しています。
私は利用しているわけではありませんが、見た目にもほかの海外の製品と比べても
見劣りするわけではありません。この会社は最初は不動産開発を手掛ける会社でした。
コンドミニアムなどの不動産開発がビンホームズ、リゾート開発がビンパール、
ショッピングセンターをビンコムセンターとして開発していました。

ところが最近は不動産事業の成功から、幅広い事業やベトナムで初めての事業にも
進出しています。スーパーマーケットとコンビニの小売業をビンマート、家電量販店を
ビンプロ、ドラックストアとしてビンファ、医療事業・病院経営ををビンメック、
学校経営をビンスクールとしてベトナムで必要性が増している事業を多角的に運営しています。
フットボールアカデミーの運営も行っており、元日本代表監督のトルシエを招聘して若手選手の
育成にもあたっています。2020年にはF1ベトナムグランプリの開催も実現しました。
その開催と同時並行で自動車製造にも乗り出しました。

自動車の製造はビンファスト、スマートフォンの製造はビンスマートとして事業をしています。
また、今後の事業展開として安全安心の農産物生産の会社としてビンエコ、アニメーション
スタジオのビンタタという企業も持っています。
まさにベトナムのコングロマリット企業として急成長しています。

この企業の創業者で会長が、ファム・ニャット・ブオンという人で、ウクライナに留学後、
テクノコムという会社をウクライナ国内で創業しました。当初はベトナムの製麺業をヒントに
即席めんの製造を展開しました。急成長を遂げた後、そこで上げた利益を母国ベトナムでの
投資に充てました。次々と新しい事業に参入していきました。ウクライナの事業は、ネスレに
1500万ドルで売却し、その資金もベトナムの投資に使いました。
ブオン会長はフォーブスが発表している世界長者番付でトップ200にも入っています。

スマートフォンを製造しているビンスマートの商品「Vスマート」のサイトには、
ベトナム語、英語とウクライナ語のバージョンがあります。ブオン会長が育ち、
起業家としての基礎を築いたウクライナでも多くの人が利用しているからでしょう。
また、ウクライナへの親近感も強いのではと思います。世界中でウクライナという国が
注目されている今ですので、こんな話題から入りました。


2.ウクライナとロシアの歴史

2月24日ロシアがウクライナ侵攻して以来、世界的な大ニュースになっていることから、
触れないわけにはいかないと思いました。
ただ、戦争はそこに住む人たちに深い悲しみと痛みを伴います。さすがにそこから入ることは
避けたいという気持ちになりました。プーチンに対する批判の考えは十分持っていますが、
感情だけで展開するわけにはいきませんので歴史的な情報を提供しようと思います。

ここではロシアとウクライナの歴史を触れておきましょう。ロシアとウクライナが兄弟のような
関係があることはよく知られています。東ヨーロッパではスラブ民族が連合国を作りました。
それがキエフ大公国です。建国は西暦882年ということです。現在のロシア、ウクライナ、
ベラルーシは、このキエフ大公国が文化的な祖先と考えられています。大公国というのは複数の
公国の連合した国だったからです。しかし為政者の変化によりキエフ大公国は分裂していきます。
次第にモスクワ大公国が力をつけていきました。度重なる内乱によってキエフは荒廃し、
人々は北東のモスクワやベラルーシ方面に移動したようです。そんな中で南部のウクライナに
あたる地域はモンゴル帝国に侵攻され、キエフ大公国は崩壊しました。
一定期間モンゴル帝国によってこの地域は支配されました。

その後、1721年以降はロシア帝国(帝政ロシア)が支配することになりました。

帝政ロシアの領土は広く実に地球の陸地の六分の一がロシアの領土の時期がありました。
ポーランド、フィンランド、今はアメリカ領のアラスカをも支配下にありました。

帝政ロシアはロシア革命により崩壊しました。崩壊後はレーニン率いるボルシェヴィキが
世界初の社会主義国家としてロシア・ソビエト共和国を建国しました。その後ボルシェヴィキの
赤軍と反ボルシェヴィキの白軍との内乱を経て、1922年ボルシェヴィキが勝利した際に、
ウクライナ、ベラルーシや南コーカサスの国々を併合した結果ソビエト連邦が誕生しました。

その後、第二次世界大戦で東欧に進出したソ連はバルト三国のリトアニア、ラトビア、
エストニアとポーランドの一部を領土に併合しました。それがかつてのソビエト連邦です。

その後、1989年ベルリンの壁が崩壊し、ワルシャワ条約機構に加盟していた国々
(東ヨーロッパ)がマルクス・レーニン主義体制を打破して、西ヨーロッパに接近しました。
1991年にはついにソビエト連邦の崩壊となりましたが、その際にソ連にくくられていた
それぞれの共和国ウクライナ、ウズベキスタンなど14か国が旧ソ連から独立しました。
ソ連崩壊のため、ソ連の中心を担っていた地域の名称ロシアという国名が復活しました。


3.国境や国名が絶えず変わるヨーロッパ

第一次大戦前のヨーロッパの地図を見ると今のヨーロッパとはかなり違います。
特に東ヨーロッパは大きな違いがあります。ドイツ帝国はポーランドやバルト三国まで
くい込んでいたり、オーストリア・ハンガリー帝国がチェコスロバキアや旧ユーゴスラビアの
地域までくい込んでいます。セルビア、モンテネグロという国はありますが、そのほかの地域は
オーストリア・ハンガリー帝国の領土になっています。
東欧諸国にある今の国名はその当時ありません。ポーランド、チェコ、スロバキア、フィンランドも
ありませんでした。ヨーロッパの領土は第一次、第二次大戦を経て絶えず変化してきています。

西ヨーロッパの変化は、東ヨーロッパに比べたら比較的少ないです。
産業革命の成功などそれぞれの国が国力を付けて植民地を拡大していたこともあり、
戦時中の国境の変更はありましたが長くは続きませんでした。アイルランドがイギリスから分離独立
したくらいで小幅にとどまっています。

ヨーロッパでは4世紀から6世紀ごろ「ゲルマン民族の大移動」といわれる時期があります。
もともとバルト海沿岸や東欧にいた民族が西ヨーロッパに移動を始めたのです。
主なゲルマン民族のうちで、西ゴート人はイベリア半島、東ゴート人はイタリア、ブルグンド人は
南西フランス、フランク人は北西フランス、アングロ・サクソン人はブリテン島に入り、
それぞれ建国したといわれています。それらの民族の総称がゲルマン民族です。

なぜ民族大移動があったかは諸説ありますが、アジア系の騎馬民族のフン族が東欧に侵攻し、
フン族の侵攻を逃れるために移動したという説があります。
このフン族は中国内陸部で恐れられていた匈奴(きょうど)の子孫だという説があります。
また、ハンガリーという国がありますが、この国の人の名前は、名字が先になります。
ヨーロッパで唯一のはずです。作曲家にバルトークという人がいますが、バルトーク・ベーラと
日本人や中国人のように名字が先になっています。
小学生の時に伝記を読んだことがあるので覚えている話です。また、ハンガリーの英語表記は
HUNGARYと書きますが、フン族と関連がある国名です。
また、もう一つの説は、もともとゲルマン人は肥料を使わない農耕をしていたことや農地を
休ませて栄養分の減少を抑えることを知らなかったので、狩猟民族のように移動したという
説があります。徐々に増える人口を維持するためにも肥沃の地、安全の地に移動する必要が
あったのです。ヨーロッパはその時々の事情で住んでいる民族や国境が変わってきた歴史が
あることは大変興味深く思います。


次回は日本とは異なるベトナムとロシアの関係性、SWIFT排除、旧ソ連諸国及び東欧諸国が
引きずる問題についてお話をしたいと思います。